連載第7回

がんばれ!同窓生~次世代へ贈る言葉~

スベリー・マーキュリーこと杉田宗広さんは、神奈川県南足柄市の出身。早稲田を目指す前にすでに吉本興業の若手芸人養成所(NSC)を目指していました。今回のお話はそのあたりから聞いてみました。

●お笑い芸人以外では教員になりたいと
スベリ 一番初めは、漠然としていて何になりたいというのはなかったんです。とにかく芸能人というもの、テレビの向こう側の人に憧れていました。特別、歌がうまいわけでもないし、特別イケメンというわけでもないし……(いや、イケメン! イケメン!の声)。高校の文化祭でクラスごとに劇をやるんですが、そこで主役をやらせてもらって、人前で表現したり笑いを取ったりするのは楽しいなと感じたのが原点かもしれません。

──人前で表現する楽しみをそこで体験してしまったのですね。緊張はしなかったですか。
スベリ あー、そのころは自分の学校で知っている仲間の前でやるくらいなので、そこまで緊張みたいなものはなかったです。わーっというノリの中で楽しいっていう感じのほうが強かったですね。

──志望校の一つとしての早稲田ってどんなイメージでしたか。
スベリ そうですね、明るい楽しいイメージは感じていました。

── 2000 年入学というと昼夜開講の時代ですね。早稲田に入学したのは吉本の NSC に通うためのステップだったのですか。
スベリ いや単なるステップというのではなくて、勉強は嫌いではないので早稲田でもきちんと学べたらいいなという思いがありました。お笑い芸人以外の職業を考えた時に、学校の教員というのもいいなと思っていたのです。

──こじつけかもしれませんが教員になりたいというのは、教壇というステージに立って子供たちからの視線を浴びるということに憧れもあったんじゃないですか。
スベリ それもあったと思いますよ。もともとちっちゃい頃、そんなに明るい子供ではなくて勉強もできるほうじゃなかったんです。小学校3年生の時の女の先生が「手を挙げてお話しすることは楽しいんだよ」ということを教えてくださって、その頃から積極的な性格に代わっていったような気がします。先生のそういう影響もあって、「楽しさを伝える」という思いがどこかにあったと思います。

──それは結構大きい出会いだったんじゃないですか。
スベリ あーそうですね、あの出会いがなければ人前に立つということもなかったかもしれません。

──今でもその先生と交流はあるんですか。
スベリ いやぁ、残念ながら今どこでどうされているかわからないんです。

●常田ゼミで吉本の養成所以外の仲間とも
──早稲田に入って面白かった思い出をお話ししていただけますか。
スベリ 西門の近くにあった「珍味」というお店ですかね。ご存知の方も多いと思いますが「茄子と唐揚げ」が名物のお店なんです。それ以外のメニューもあるんですが、注文するととんでもない目つきで睨まれちゃうんです。(笑)

──だったら最初からその二品にしとけよって感じですね。(笑)
スベリ そうなんです。大学2年の時に吉本の養成所の時間が終わって、早稲田に向かっている時にお腹がすいてボリュームのあるものが食べたいなとそのお店に入って、「A 定食ください」って言っちゃったんです。そこにいた他のお客さんも思わず「えっ!」っていうような感じでこっちを見るんです。(爆笑)お店のお作法を知ったのはそのあとからでした。

── 30 代から 40 代くらいの方には懐かしの名店なんですね。
スベリ 笑い話はないですけれども、南門の近くにある早稲弁の餃カラ弁当もよく食べましたねー。

──影響を受けた先生や仲間は。
スベリ ゼミは、常田先生のゼミでした。常田先生は形式にとらわれない方で、例えば卒論も何ページ以上でどういう形でというものではなくて、自分の考えで論理立てて作成したものならば1ページでもよいという感じでした。一般の講義で管理科学概論も受けていたんですがその時は、「よく怒るおじいちゃんだな」くらいに思っていたんですけど。(笑)本来はご自身の信念をお持ちだったんですね。ゼミでは意思決定理論というのを教えていらっしゃったのですが、これから自分がお笑い芸人として何かを選択するときに役立ちそうだなと思いました。

──結構固いですよね。
スベリ そうですね、でも意外と単純にいろんな方法で物事を選択していくというか。先輩たちもすごい真面目というわけでもなく、遊んでばかりでもなくバランスの取れたカッコイイ人が多かったです。ゼミといえば、合宿の時1度川でおぼれたことがあるんです。千葉の茂原のほうの大きな川で泳いでいたんですけど、息継ぎのたびにみんながワァワァ言って走って追いかけてくるんです。おかしいなと思って気が付いたら全然泳げてなくて僕が流されていたんですよ。危なかったです。(笑)

──常田ゼミは先生や仲間とも結構濃い交流ができたんじゃないですか。
スベリ そうですね、吉本の養成所には大学の2年まで行ってましたから、あまり早稲田のみんなとの交流がなくて。3年のゼミからよく顔を合わせる仲間ができた感じですね。

●ポジティブな信念があって芸人の道へ
──就活の時期には、周りが活発に動いているのを見て焦りみたいなものを感じませんでしたか。
スベリ ちょっと頭をよぎることもありましたけど、「よぉし、やってやるぞ!」という希望というかポジティブな信念のほうが強かったので、やめようと思ったことは一度もないですね。

──湧き上がる自信があったんですか。
スベリ 当時はす~ごいありました。と言っても今はないってわけじゃないですよ。今は当時と違った形での自信を持っています。

──当時、大学の関係者でスベリーさんが芸人を目指しているということを知っている方はいましたか。
スベリ 語学のクラスの人たちは知っていたかと思います。

──反応はどうでした。
スベリ 意外に普通な感じで、せいぜい「有名人に会えたか?」と聞かれるくらいでしたね。

●奇跡的な偶然でスベリー・マーキュリーに
スベリ ある時大隈講堂で応援部のステージを観る機会があったのですが、そこでのショートコントがかなり面白かったんです。「ヤベェ、応援部が面白いってどういうことなんだよ?」とかなりの衝撃を受けたんです。実は、その時の応援部の人が、吉本の一期後輩でいるんです。

──ええっ!
スベリ 錦織圭さんのモノマネをやる「キャベツ確認中」の「しまぞう Z」さんなんです。彼は大学では1年先輩なんですが、卒業してから吉本に入ったので、芸歴的には僕が1期先輩なんです。これもなにか運命的だなと感じますね。

──スベリーさんの今の芸風はいつごろからスタートしたのですか。
スベリ 2013 年の 11 月からです。先輩芸人で「ダイノジ」さんというコンビの大地さんという方に誘われて、岩手県宮古市であった復興イベントにピンで参加したんです。「ダイノジ」さんが DJ の役まわりでクイーンの曲をかけて扇動して、僕がフレディネタをやったんですね。そしたらクイーンなんか知らないはずの子供達にすごく受けて、ステージをバンバン叩くんですよ。それから大地さんに「今日からお前は杉田でなくて、スベリー・マーキュリーだ」とそこで命名されたのです。そのイベントが「鮭・アワビ祭り」というんですが、たまたま開催されたのが11月24日でなんとフレディ・マーキュリーの命日なんです。なんだか奇跡的な偶然ですよね。

──その日、2013 年 11 月 24 日がスベリー・マーキュリーの誕生日というわけですね。

●人生、行動すればなんとでもなる
──芸能活動を続けてきた中で一番苦しかったなと思ったことは。
スベリ そうですねぇ、最初のコンビ(※1)を組んで 7 年ほど僕がネタ作りをしていたんですが、作っても作っても相方からダメ出しをされたことですかね。

──生懸命ネタ作りして自分では面白い大丈夫だと思っているんですが、向こうも真剣にダメ出しをしてくるんで、結構しんどかったですね。漫才はずっと同じネタでは飽きられてしまうので、新ネタができないのは辛いです。一度相方の連絡を無視して舞台の直前までネタ合わせをしないで出たこともあります。

──どうやって乗り越えたんですか。
スベリ 今度は自分がネタ作りをしない違うアプローチにシフトチェンジしてみようと思いました。そこでコンビを解散して、次に後輩の女の子と組みました(※2)。今度はアイドルとマネージャーという設定で、そ
の女の子がネタ作りを……。

──宮古のイベントに参加したのはその頃ですか。
スベリ いや、宮古の時は 3 度目のコンビ(※3)でした。それから 5 年くらいピンでやったり、コンビでやったりで。
20 代のころはお金がなかったですね。吉本興業からの給料は月にウン万円くらいでしたけどまだましな方かな。昼はネタ作り、夕方は劇場、夜はバイトという生活サイクルだったので、お金を使うこともあんまりなかったです。

──芸能界ではよく営業するって言いますけど、自分から手を挙げるということはあるんですか。
スベリ いや基本的には会社から振られてくるので、待っている状態ですね。

──じゃあ、どんな形でチャンスをつかむのですか。
スベリ オーソドックスなパターンとしては、劇場(新宿ルミネ)に出てそこでウケルということですね。当時は「対決するライブ」というのがあったんです。夕方 5 時~ 6 時というのが若手のバトル、7 時~ 9 時というのが売れてる芸人さんの時間帯で。若手としては吉本の社員におぼえてもらえるよう頑張りましたね。もしくは強烈なキャラクターですね。社員の目に留まるのが次の仕事のきっかけになります。

──宮古でのスベリー・マーキュリーは大きな転機だったのではないですか。
スベリ だいぶ変わりましたね。お笑いの型はひとつではないんだなということに気づきました。例えば作りこまれたネタをやって笑いをとってもいいし、例えば面白いダンスで笑いをとってもいいし、人を楽しませるっていろんなやり方があるんだなというふうに思うようになって……。そうしたら自然に営業というかお声がけをいただくことが多くなりました。

──おおっ、そうですか!
スベリ 例えば神奈川県の大井町の「笑顔特派員」に任命され、町を笑顔にするというというか元気にするお仕事をいただいたり、やっぱりフレディ・マーキュリーに関連するお仕事だったりですね。自分の持っている武器というか、やれることが明確になってきたので、いろんなところからのお仕事がふえてきたと思います。クイーン関連もそうですけど、去年まで組んでいたコンビが「こんにちは計画」というんですが、これが英訳すると「ハロープロジェクト」というか「ハロプロ」(※4)なものですから、その関連で昔から 好きだったアイドルに関する仕事も来るようになりました。

(※1)「ビンゴ!」のボケ担当。(※2)「モダンボーイ・モダンガール」。(※ 3)「こんにちは計画」。(※ 4)アップフロントプロモーショングループに所属する女性アイドルグループ・女性アイドルタレントの総称。


──やはりスベリー・マーキュリーは大きかったですね。
スベリ そうですね、あれがなかったらもしかしたら今、芸人じゃなかったかもしれません。

──クイーンの映画『ボヘミアン・ラプソディ』は2018 年 11 月の封切でしたが、いい意味で大きな影響があったんですね。
スベリ いやぁ、ありました! 映画がこんなに社会的ブームになるほどまでにヒットすると思わなかったので、なんか有り難い感じですね。フレディにいろんな恩恵をどれだけもらっているのか。(笑)だからそれをもらってばかりじゃなくてお返しをしていかなくちゃ。感謝の気持ちをネタにして、それを通じて世の中にもっとクイーンを普及させていきたいと思います。

──それでは、最後に早稲田の学生にメッセージを。
スベリ 自分自身は安定した職業を選んだわけではないが、今は家族もいて生活できています。人生、行動すればなんとでもなる。「やりたいことをやる、やりたくないことはやらない!」。
大人になってあの時もっと勉強しておけばよかったと思うこともあるけれど、早稲田での時間が無駄になったことはないと思います。そんな幸せな環境を生かして心奮わせるような、そう、「ROCK YOU !」な日々を過ごしましょう。

~~あとがき~~
クイーンのフレディ・マーキュリーにそっくりと言うわけではない。
「ボヘミアン・ラプソディ」に主演したレミ・マレックのように歌唱力が優れているわけでもない。ただ決めたポーズは、フレディ・マーキュリーを背景とした「絵力」に満ちている。スベリー・マーキュリーにフレディ・
マーキュリーが乗り移るのだ。
普通に話す姿勢は、至極穏やかな好青年だ。NHKのおかあさんといっしょの「からだダンダン」というコーナーでまだ小さなお子さんと戯れる時間が楽しみだという。
「楽しさを伝える」と言う彼のミッションは、いろいろな人に支えられながらいろいろな形でこれからも拡大していくのではないかと思う。我々もその小さな支えになれたらいいなと思った。

(プロフィール)
1981.11.5 生まれ。金太郎のふるさと、神奈川県南足柄市で生まれ育つ。小田原高校で青春時代を過ごすうちにお笑い芸人になることを決める。
早稲田大学に進学後の 2001 年 4 月、よしもとのお笑い養成所 NSC(東京 NSC7 期生)に。翌 2002 年 4 月に「ビンゴ!」のボケ担当として芸人デビュー。その後「モダンボーイモダンガール」「こんにちは計画」
とコンビを変え、2018 年 6 月からピン芸人・スベリー杉田として新しい一歩を踏み出す。
2013 年 11 月 24 日に岩手県宮古市田老で行われた「鮭・あわびまつり」では、フレディ・マーキュリーをリスペクトしたスベリー・マーキュリーの名前を授かる。
現在、よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。
特命かながわ発信隊のメンバーであり、現在神奈川県西部に位置する大井町の笑顔特派員に任命されている。また、ネタだけでなく司会業やモノマネ、親子で楽しむキッズディスコ「パンダディスコ」 の MC &踊りのお兄さん、エンタメ音楽ユニット “EspressoBoys”(エスプレッソボーイズ)などジャンルレスに活動中。

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